西教寺について

西教寺

西教寺のご紹介

涅槃山究竟院 西教寺 は、東京都文京区にある浄土真宗本願寺派のお寺です。
ご本山は京都の西本願寺です。宗祖は、親鸞聖人です。

西教寺の歴史と建築

西教寺は、常州那珂群・村松(現在の茨城県東海村)に住んでいた村松行武が親鸞聖人の弟子となり、慈専坊と称し、一宇の堂を建てたことから始まります。

寛永7年(1630年)に了賢(村松行武から10代目に当たる村松茂武)が江戸湯島の金助町に移り一寺を建立しましたが、明暦3年(1657年)に火災による被害にあい、了賢の子、誓玄の時代に現在の文京区向丘に移転いたしました。

境内は、江戸時代の建築である鐘楼、表門をはじめ、明治4年に再建された本堂、明治28年に再建された客殿が、関東大震災や戦災によって失われることなく寺院木造建築を今に伝えております。 ご門徒の皆様に多大なご協力を賜り、平成20年より丸3年間かけて大規模な耐震補強を含めた修復工事をさせて頂きました。 明治時代の木造建築に、構造や強度などを最新技術で算出する現代工務店の施工と宮大工の伝統工法が融合し、お陰様で次世代においても安心できる建物となりました。
 新たな息吹を得たこの建築を、御法要やご法事などでご門徒の皆様に喜んでお使いいただけます様、今後も大切に守っていきたいと思います。

西教寺表門

西教寺表門

西教寺表門は、昭和55年より文京区の有形文化財に指定されております。
 この表門は、明治7年(1874年)に徳川家の重臣酒井雅楽頭(さかいうたのかみ・井伊家と並ぶ大老の家柄)の屋敷より移築されたものです。 大正2年の関東大震災の被害により重量軽減のため瓦葺から銅板棒葺に改めるなど一部修理がされましたが、複雑な寸法体系を持ち、近世初頭の標準からは外れた独特な構成が特徴となっています。

江戸時代、大名の家に嫁いだ将軍家の姫が住む奥御殿を「御守殿」と呼び、その御殿の門は朱色で塗られた事から「赤門」と呼ばれておりました。
 西教寺表門もこの「赤門」の一つで、江戸幕府の譜代大名であった酒井雅楽頭家第13代、第5代姫路藩主酒井忠学に嫁いだ喜代姫(1818~1868)をお迎えするために建てられたものでした。 喜代姫は、江戸幕府の11代将軍 徳川家斉の25女で、12代将軍家慶の異母妹にあたり、酒井忠学の正室として天保3年(1832年)に姫路に迎えられました。 その際、酒井雅楽頭家の江戸上屋敷の庭に、この赤門が建立されたと伝えられています。

酒井雅楽頭家の上屋敷は現在の大手町にありました。 その中庭にあたります、現在のパレスホテル横辺りにこの赤門はあったのだろうと推測されます。
 赤門は、火災などで焼失した場合再建してはいけないという慣習がありました。 現在も残る赤門は数が少なく、貴重なものであると判断され文京区の有形文化財となりました。

坊主亀

坊主亀

本堂の前に、坊主亀の碑があります。 これは、明治初期に加賀鳶と町火消しの喧嘩があり、中川亀吉という者が頭を丸めて和睦した際に建てられた記念碑です。

西教寺の建物や季節の風景

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